飛田新地の遊郭革命
僕は大阪に帰ってきていた。
仕事で地元を離れて30年弱。
天王寺駅の南東側、上町台地に佇む、マンションのバルコニーに座り
西成区山王町を見下ろしながら、この記事を書いている。
山王町といえば、飛田新地。
様変わりというか、もう別世界とまでいう雰囲気を出してる天王寺。
キューズモールに、てんしば、ハルカス、ハルカスの南側もショッピングビルが再開発で並び、30年前の雰囲気なんて、あべのベルタがまだあるくらいだ。
そんな目と鼻の先、まるでこの1画だけは大正時代で止まってるかのような夜景。
提灯の明かりと、ピンクのネオン。
上町台地の上と下で、これほど世界が違うのも珍しい場所。
昔は、背の高いビルもマンションもなく、見下ろすこともなかったが、今は台地の上には数棟建ち、
地元以外の方もいると思うのだが、この光景をどうみているのだろうか?
好奇心がそそられる。
母親に絶対に坂を降りたら駄目、怖い鬼がいるだの、幽霊が出るだの、散々脅かされた。
何があるんだろうと子供の頃には思っていたものの、なんとなくわかり始めたのは、中学に入ってからだったか、崖のようにそびえ立つ台地の境界線。
これが嘆きの壁の一部になっていたなんてのを知るのは、完全に大人になってからだった
そんな僕に、飛田の歴史など色々と教えてくれた近所に住んでいた仙人と呼ばれたおじいさんから聞いた話をここで書こうと思う。
業界に激震!飛田新地が起こした三大革命
飛田新地の歴史は意外に浅く大正5年。
吉原遊郭は江戸時代、大阪で有名な松島遊郭は明治2年を考えると、だいぶ後発組。
そもそも飛田新地は、明治45年のミナミの大火による難波新地乙部遊廓が全焼し、同じ場所で再建許可が降りなかったこともあり、現在の西成区山王町への移転し誕生する。
後発の飛田新地が、どうやって西日本一の遊郭にのし上がっていったのか!
◆革命その1:遊郭の運営をショッピングモール化する!
1つの法人が土地を買い取り、道路を敷いて区画整理をし、建物を建てて、店子に貸す。
遊郭の巨大ショッピングセンターの誕生。
個人商店が立ち並んだ商店街と大手土地開発デベロッパーが手がけるショッピングモール、どっちが強いとなると、やっぱ後者になりますよね。
それは現代も同じですから。
まずはお店を出そうとするオーナー側への敷居が下がったこと。
毎月の家賃だけ払えば、デベロッパーが用意してくれてるのだからこんなに良いことはないですからね。
初期投資に対してのリスクを軽減して、お店が集まりやすくしたんですね。
これがまず発展していく戦略の一つになったそうです。
◆革命その2:大正モダン建築でビリヤード!
当時の最新の建築、大正モダン。
ソファが置かれていたり、中にはビリヤード台が置いてある店もあったそうな。
近代的な大正モダンの建築技法を用いた建物を造り、そして遊女さんも昔は着物などを着ていたものが、洋服を着ていたり。
他の遊郭との差別化がこうったところでされていたという事になります。
遊びにくるお客さんからしたら、やっぱり新しい建物の方が印象も良いですし、行ってみたいと思いますからね。
お店のオーナーさんも嬉しい、そして働く遊女さんだって綺麗なお店の方がいいに決まってる。
ほんとこの三方良しがハマったのだと思う。
お店が増える。良い遊女さんが集まる。そしたら余計にお客さんが増えるスパイラル。
◆革命その3:歴史的瞬間!ちょんの間の誕生!
遊郭で遊ぶ。
昔は遊女と男女の関係になるには、最低3回ほどの来店が必要でした。
最初は、顔見せ程度で帰る。
2回目は一緒にお酒を飲んでお話しする。
3回目にしてようやく一緒の布団に入れるという流れです。
何ともまどろっこしいですよね?
さらに一度その女性と決めたら、他の女性への浮気は禁止でした。
一人と決めたら、その遊女が卒業するまでその女性しか指名できないルールだったそうです。
そこで飛田が考えたのが、何とも関西人らしい考え方なのですが、
「一回目の来店でOK、さらに浮気もOK!ビジネス何だから、お互いに楽しみましょ!!」
もうお客さんからしたら、早い安い美味いじゃないですけど、手っ取り早いし、あれこれ見て回れてほんと大人のテーマパークの誕生
この運営方式が、現代まで少しずつ変化はあったものの、今も残る遊郭全てに波及して行った形になります。
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